2014年稽古納め会を開催いたしました

初春のような陽光。
前日の冷たい雨もすっかり上がり、青く澄み切った空の下。
2014年稽古納め会が12月21日(日)、14:00から16:00の間、大手町の日経ホールで開かれた。

前半は講義。今の日本で練習というものをどうとらえたら良いかということが話された。
そして後半は、今の日本で行われるべき練習の体験。
眼目は後半の、練習の体験であった。

今回は、焦鉄軍先生が日本に来て28年間、御自身納得されての練習の本格的に公にされる1日目。
“稽古納めの会だけれど、私(焦鉄軍)にとっては稽古初めの会。”との思いで臨まれた。

“わからなくてもこの空間に居るだけでいいのです。この練習の特徴がそこにあります。とにかく体験してみないとわからないことです。”

“今の現代人にはどうしてこういう練習が必要となっているか。
現代は脳が深く休める時間があまり無い。
そのために、自分の身体の深い疲れ(歪み ずれ)といったものが取れない。そして、そのことを本人が全然感じない。そのことの自覚が無い。そういうところまで来てしまっている。
例えば、ものすごく疲れて、顔がつまってしまっている。日本人には、肩がつまっている人、腰がつまっている人、足がつまっている人が居ますが、顔がつまってしまっている人が、けっこう多いのです。
顔がつまっている時は、怒っている顔をしています。しかし、本人に「何か怒っているのですか」と聞いても、「いや、全然怒ってなどいない」と答える。ものすごく恐い顔をしているのにです。
そのように自覚が無いのは、生まれて意識が有る時からスッキリサッパリの経験があまり無くて、人間はそういうものだと思っているからなのです。
そういう現代において、この、寝ても食べても取れない、深い疲れ(歪み ずれ)を取るためには、こういう練習しかない。それが無ければ本当の自分がわからない。
皆さんが何とか安心を取り戻して、本当の意欲を持ち直せるための練習です。”

“日本人は、本来、余計なものが何ひとつついていない良さ、そのきれいさを求めている。
料理でも、そういった意味で徹底的にきれいにしない限り、栄養になりにくい。さまざまなところで、そういうことがあります。
きれいなものをつくる大事なポイントは自分がきれいであるということです。
取れにくい疲れが取れて、すっきりさっぱりきれいであれる。その結果が出るために、安心して練習出来るものに調節しての練習です。”

“どんな困難が有っても、乗り越えるのが当たり前だと自分は思っています。下がる道など無いのですから。
そういうところは皆さんも同じだと思っています。
そういう意味で、私のところには20年以上ずっと私について練習している人が多いのです。一生懸命追求しているその精神力に私は、すごく感動します。だから絶対に中途半端にならないようにと思っています。そうして今年つかんだものは、納得して皆さんに紹介出来るものです。来年からは、新しい人にも教えます。もっと多くの人が快適に生活出来るように、微力だけれど少し貢献したいと考えています。”
前半はこのあと「氣」「功」「静功」「動功」「収功」について練習の中での基本的意味が解説されました。
しかし、“前半の話しを聞いてどのくらいわかるか、そこは重要ではありません。重要なのは後半です。”

そして、その後半。

“出来るところをやって出来なければ動かなくて結構。私の方が細かいところを調節していますから全てまねをする必要はありません。だいたいでいいのです。
練習の順番は、準備運動、そして静功。目を閉じて静かに。静功が終わったところで声をかけますから、もし寝てしまったら、かまいませんから寝て下さい。
とにかく安心して。「練習」の言葉は忘れて、ここから休憩。休憩の気分でやってみて下さい。せっかくのチャンスだから、先生と一緒に休憩します。
そういうことです。
静功が終わったら声をかけます。そうしたら、その時静かに目を開いて下さい。私が(聞こえているかどうか)確認しますから安心していて下さい。”

と、準備運動からはじめて50分程。
練習を終えて、椅子に座られた姿勢のままで、自然に先生は少し話しをされました。

“今回のこういう練習は何か大事な仕事をする前、わざわざ練習服に着替えたりしなくてもすぐに出来る。そういう状態がとても大事です。
皆さん40才、50才を超えると次第に能力が落ちて来る。今は20才からもなかなか思ったよりも能力が無いと感じている。
しかし、実は、そうではありません。
人間の能力、特に東洋人にとって、それは筋肉でひっぱるような、そういう力ではなく、我々が使っている刃物のようにいかに切れ味が良いかどうか、切れ味が良ければ、それほど力を入れなくてもスッと切れるのです。
ちょうど今の身体は、切れ味の悪い包丁みたいなもので、力を入れたら切ったものは目茶苦茶になってしまう。しかし、力を入れなければ切れない。だから難しい。
長く日本に居て思うのですが、この土地の本当に要求しているのは、モリモリの筋肉ではなく、その切れ味、包丁で言えば、なにひとつ錆がついていないそのきれいさと、その材質です。
日本人は、材質は良くても、切れ味が悪くなってしまって、材質が本々は良い分、難しくなっている。
いろいろな角度から見て来て、そういう意味で、今年は納得しました。
人間はいつか死にます。当たり前です。
しかし、年齢に関係無く、完全に燃えてきれいに逝っているかどうか。
40才でも本当にきれいに燃えて逝っている人もいれば、100才でも中途半端に生きているという人もいる。長生きすればきれいに燃え尽きているかというと、そうでもなく、短い人生だから悔いが残って逝っているとも限りません。
そういう意味で、悔いの無い人生を送ることは、自分の身体をどうやって本当にきれいにするかで、ちょうど使っているお皿みたいなもの。使ったあとはきれいに洗って、しまう。いつでもきれいなものを用意しておく。それは人間が自分の身体に対するのと似ているのです。
今はそうではなく、1日が、本来の(きれいな)自分として生きている1日ではなくなっています。
本来であれば、年を取れば取るほどに、余裕が出て来ます。若い時には、それほど身体に智慧が無いのです。きれいにしたくても、なかなかきれいに出来ない。しかし、10年、20年、30年、40年、50年と年月が経てば経つほど、どんどんそういう智慧があらわれて来て、年を取れば取るほどにきれいで、身体に香りが出る。
そうであれば、若い人はそういう年配の方を見て、我々もあのように立派に年を取りたいなと、そう思うはずです。
しかし、今の若い人は、年を取りたくない。年配の方を見ている時、なんとも言えず辛い。そういう感じが有る。
ニュースなどで、私はあまり知らないのですが有名人などが、覚醒剤の不法所持とか何とかで騒がれています。そういった身体を麻痺させるものを使う人がどんどん増えて、どんなに法律を厳しくしても防ぐことが出来ない。それは何故か。身体が辛いのです。深い疲れ(歪み ずれ)が取れず、その辛さから解放されるために、何とか強い刺激が欲しいのです。
疲れてコーヒーを飲む、タバコを吸う。しかし、それでは一時的に楽になっても疲れは取れないのが日本です。
そういうところが、何か社会にひとつ、そういう中途半端な刺激ではなくて、その刺激によって自分が更にきれいになって、更に幸せになれるものが無くてはなりません。
もっとコーヒーの味、お茶の味、タバコの味が楽しめる身体を、先に用意すべきです。そうすれば、そういったものは本当はいいものです。タバコを吸って、子供達が横で、スーッと吸い込みたくなるくらいの煙が出てほしい。いま、どこのお店に行ってもお店全体が臭い。本来タバコはそういうものではありません。
そういう意味で、1人、1人の大人が若い人に向かって文句を言うより、きれいな背中を見せるべきです。と言っても話しとしては簡単ですが、実に大変なことです。でも、我々大人がそういう感じでいないと、若い人に将来が無いのです。だから私も皆さんも、自分の出来るところを頑張って、どんなに年を取っても最期の1日でも輝きが出るような人生を送るべきだと思います。

では、今年の稽古納めの会はここで終了します。
来年、また練習したい人は焦鉄軍事務所に問い合わせをして下さい。今までと違って、やりたければ練習を教えます。そういうことを約束します。では!”

“12月で終わるのではなくて、12月から初まるのです。”
と10月頃に言われていた先生ですが、見事、初まりの12月となる今回の稽古納め会であったと思います。

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